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【真蹟】★豊臣秀吉 謝状 中村一氏宛 掛軸★検)淀殿 淀君 徳川光圀 徳川家康 織田信長 明智光秀 武田信玄 毛利輝元 柴田勝家 長宗我部元親 島津義久 浅井長政 上杉謙信 前田利家 千利休 加藤清正
【商品説明】
★真作保証のお品物です。(真作・本物保証の物に関して、公的機関にて証明がされた場合については、返品・返金に応じます)
本紙材質【紙本】 保存箱有り【タトウに破れが見られます】
表装状態(若干の巻き癖、鑑賞時にはほとんど気にならない程の染みが見られます)
本紙状態(若干の折れ、シワ、染み、多少の小さな虫食い補修箇所など見られます。ほぼ写真にて確認可能です。
【豊臣秀吉】1537-1598
安土・桃山時代の武将。尾張中村生。織田信長に仕え木下藤吉郎から羽柴秀吉と改める。山崎の戦で明智光秀を討ち、信長に代り天下に号令、太閤に至る。晩年、朝鮮出兵を企てる。貨幣統一・兵農分離・太閤検地・石高制等の施行によって幕藩体制の基礎をつくった。慶長3年(1598)歿、63才。
【中村一氏】?‐1600
安土桃山時代の武将。通称は孫平次,式部少輔。一政の子。豊臣秀吉に仕え,1583年(天正11)以降和泉岸和田城主として紀州の根来・雑賀一揆と戦う。85年近江水口城主となり豊臣秀次に属する。90年徳川家康関東移封後の駿河国14万2000石を与えられ府中城主。1600年(慶長5)6月重病により,家康の会津征伐には弟一栄を名代として従軍させ,翌月病死。関ヶ原の戦後,子息忠一は伯耆米子17万5000石に加転される。
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